M.I.A. 『Kala』

My Rate : ★★★1/2(★★★★1/2と★★の間をさまよいながら)
M.I.A.の言動を見ていると、「この人って一時代前の人の感覚だよな」と思う瞬間がある。例えば、彼女がこのアルバムについて語った言葉を引用してみよう。


「今はポスト・グローバリゼーションって言葉がかっこいいとされてる時代だと思うの。例えば、最近雑誌とかではアフリカのマシンガンを抱えた少年兵とそのファッションを斬新なポートレートとして撮影してたりする。でも、こういった西側の解釈を押し付けられる前に、まずは第三世界の彼らが発信するものは何なのか、どういうものなのかを知ろうとする方が先決よね。そういうことを音楽でやろうとしている人はいないし、今現在では自分しかできない試みなんじゃないかって思ってる。彼らと同じところにいた人間として、ね。それが西に渡って言葉や文化を習得した自分にできる有意義な試みなんじゃないかと思って……」


一見すごく頭のいい台詞である。しかし、例えば、彼女を表紙にしたがる雑誌や彼女をほめたがる評論家が、彼女が嫌っているはずの「ポスト・グローバリゼーション」的なマインドを持っていないと言えば、それは大嘘だろう。そもそもM.I.A.というアイコンはかなり「ポスト・グローバリゼーション」的である。彼女自身はそのことにまるで気づいていないかのようだ。そして、もう一つ皮肉なのは、例えば、先進国で安穏と音楽評論などをやっていられる「安全圏」にいる人たちより、「リアル」であると思われる、先進国の若いワーキング・プアや若年失業者が、同じ苦境から第三世界の人々に共感するか、というとそうではなく、往々にして「ネオナチ」的な発想に走り、(「移民が俺たちの職を奪っていく」)彼らを迫害しようとするという歴史的な事実である。まあ、それは極端な例としても、普通、苦境にいる人間ほど、他人のことを思いやれないものだ。それゆえに、彼女の声に耳を傾けられる人間は、「安全圏」にいる人間にならざるを得ないし、彼女の声に耳を傾けようとする行為が、すなわち、彼女の言う「ポスト・グローバリゼーション」的なマインドから自由になれるかといえば、それはかなり難しいことだ。


「人間は分りあえない」。U2はカート・コベインを理解することはできるが、カート・コベインはおそらくU2のことを受け入れない。それをどう思うかは別にして、人間は環境・価値観によって圧倒的な断絶を生み出してしまうことを、みな多かれ少なかれ知っている。M.I.A.はまだその壁と格闘していないように思える。


M.I.A.がこのアルバムでやっているのは、第3世界の音楽をサンプリングし、第3世界的な状況を描写することだ。そして、自分が第3世界の側の人間であることを宣言している。それは、非常に興味深い音楽であるが、早々に「外部者」であることを宣言した彼女の言葉を、「安全」な先進国で20何年間暮らした人間が一体どう捉えればいいというのだ?ここには、例えば、U2が「原子爆弾を解体する方法」と銘打ったアルバムの中で、どこにも「原子爆弾を解体する方法」を示さないまま、最後に「ねえ、神様、教えてよ。何で、日が昇る前はいつも真っ暗なの?」と歌った感覚は存在しない。あるいは、スライ・アンド・ザ・ファミリーストーンが「Don't Call Me Nigger, Whitey. Don't Call Me Whitey, Nigger」と歌った感覚もない。むしろ、そこからRunning Awayして、「What’s Going On」と歌うマーヴィン・ゲイに、「There’s A Riot Goin’ On」と歌った感覚に近いのだ。これはちょっと寂しい事実である。


そうであるからこそ、「安全」な先進国で20何年間暮らした人間として、「ポスト・グローバリゼーション」的なマインドで彼女の音楽を聴こう。「第3世界的なものって、今新鮮でカッコイイよね」とでもいいながら。先進国の人間からすれば、未知の世界に思えるような記号を撒き散らしながら、なんやかや、多くの曲のビートそのものが、「先進国的」なヒップホップのビートの上に乗せられているのは、こういうマインドにとって、うってつけなのだ。

カラ KALA

カラ KALA